日常生活では言葉にする機会を逃してしまうような夢や愚痴を吐き出すレクリエーション。 時に真面目に、時に愉快に、真摯に向き合います。どなたさまもふらりとお越しくださいませ。
吐き出し喫茶とは:深澤孝史さんよりコメント
2024年10月5日(土)、美術家の深澤孝史さんをゲストにお迎えして、吐き出し喫茶を開催しました。当日を振り返って、コメントを頂きました。
吐き出し喫茶とは戸島由浦さんと櫻井幸絵さんが企画した喫茶店の形をした日常生活では言葉にする機会を逃してしまうような夢や愚痴を吐き出す場所のことである。戸島さんと櫻井さんでは吐き出し喫茶に求める場所の意義が微妙に違うように感じた。その違いを吐き出しの必要性と照らし合わせて、試しに彼女たちの二つの「吐き出し」を「都市生活を営む上での吐き出し」と「生命活動を営む上での吐き出し」の二つに分けて考えてみる。
「都市生活を営む上での吐き出し」については、吐き出すことと公共の場の関係について繋げてみる。公共は、しばしばそこに存在する誰もがその発言を無視されない場所を作ることから始まると言われる。ちょっとした小さなモヤモヤを無視されない形で、その存在を認めてあげるために「吐き出し喫茶」はある。あまり大きな声でいうと角が立ったり、まだ自分の中でもそれほど明快になっていない思いだったりするものはなかなか公の場所では話すことができない。だけどそれは存在していないわけではない。そのような弱さを伴う小さな声の存在を認める小さな公共として吐き出し喫茶は必要な場所となる。僕がゲストで参加した日の終わりごろに、吐き出し喫茶の向かいでカフェを営んでいるマスターがやってきて、自身の密やかな表現活動や、社会福祉に対する愚痴などを吐き出して帰っていったが、自身も場を開いているにも関わらずわざわざやってきたことに僕はちょっとしたケアの場の可能性を感じた。
もう一つの「生命活動を営む上での吐き出し」については、複数の現実を認める場所として考えてみる。置かれた環境と自身の志向の不一致や、生い立ちの問題などさまざまな要因から、多くの人たちが共有している常識的な現実と自分自身を成り立たすために必要な現実との認識のズレが生じることがある。当人は自然にのびのび存在したいだけなのに、たとえば常識的とされる現実に攻撃を受けて、自分自身の現実世界を素直に生成できなくなる。多数派から見たらズレた世界の捉え方を、一方的に病気や間違いなどと名付けをせずに、その人を生成するための固有の現実と認め、それを表現として「吐き出す」場所をつくる。櫻井さんは喫茶店も演劇の舞台の一つとして捉えて、参加者をもう一つの現実に誘おうと呼びかける。のびのび生きるためには、現実は一つではなく複数あった方がいいということを共有する場が必要だ。
どちらも根本的には同じ「吐き出し」であるが、参加者の社会に対する順応度の違いからその質が変わってくるのかもしれない。僕はその二つの「吐き出し」を三対七くらいの割合で混ぜた「信仰振興課相談窓口」という場所を設置させていただいた。これからさまざまなゲストの捉え方の数だけ「吐き出し」の形が生まれるのだと思うとそれも楽しみである。
深澤孝史
※吐き出し喫茶(2024年9月-12月)は、東京藝大「 I LOVE YOU」プロジェクトの助成を受けています。