日常生活では言葉にする機会を逃してしまうような夢や愚痴を吐き出すレクリエーション。 時に真面目に、時に愉快に、真摯に向き合います。どなたさまもふらりとお越しくださいませ。
吐き出し喫茶とは:小林大賀さんよりコメント
2024年9月21日(土)、小林大賀さん(映像、絵本作家・画家)をゲストにお迎えして、吐き出し喫茶を開催しました。約1年いらっしゃったメキシコでの出来事と吐き出し喫茶を重ね合わせた応援コメントを頂きました。
昨年の9月から約11か月メキシコ滞在して、それは初めての海外生活と言えるものだった。旅は沢山したけど、生活とは言えなかったから。
アパートから表の通りに出ると、隣の鶏肉屋の店主に「おはよう、サビーノさん」とみんなが挨拶して集まってくる。あまりに皆が挨拶するから、サビーノさんは裏の顔を持っていて、本当はこの辺りの元締めかもしれない。。。という妄想に至る。一日中、店と歩道の中間地点でだらだらしているエンリケおじさんは、リタイアした警察官で、アル中で、毎日同じ話をしてくれた。
あるメキシコ晴れの暑い日、耐えられなくなって1.5Lくらいあるアイスカップを買ったら、部屋の冷凍庫は壁面の氷が成長しすぎていて、入らなかった。サビーノさんに「もう溶けたのをすするしかないよ、ははは」とこぼすと「それなら店の冷蔵庫に入れとけよ」と言う。なんだか、メキシコ人は助けてくれる。1000万都市のど真ん中でも。自分が住む札幌という街の人間関係の希薄さとのコントラストが眩しかった。
札幌や北海道の文化事業に携わっていれば必ず接する「コミュニティとの〜」や「地域との〜」という言葉についぞ出会わなかった。理由は様々だろうけど、ひとつには「コミュニティ」と言えるものが、まだメキシコにはあるからではないかと思う。あくまで体感的なものだけど。コミュニティに関わるアートが、住民のコミュニケーションを促すための存在というわけではないが、自然とそういう役割を負うこともある。「吐き出し喫茶」は一歩進んで、積極的に人々の隙間を縫うような、穴を繕うような活動。店主やゲストが吐き出しの聞き手になるだけでなく、お客さん同士が繕い合う場面も目の当たりにした。
夏に札幌に帰って来たら、やたらとセミの羽根が落ちていて、何となしに拾って集めていた。結局それは、吐き出し喫茶で吐き出された手紙をストーブで「焚き上げる」ときに、象徴として封筒に入れて使ってもらうことになった。何が繋がるかわからない場所は、可能性の高まる場所。ある日本人僧侶がメキシコ講演で「ここはまだカオスがあって良いですね」と言っていたのを思い出す。もう日本ではそういうものは消えていく一方で、作らなければ、生まれない。「吐き出し喫茶」が生むカオスと可能性に僕も期待したい。
小林大賀
※吐き出し喫茶(2024年9月-12月)は、東京藝大「 I LOVE YOU」プロジェクトの助成を受けています。